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菖蒲市街・歴史散歩
晩秋の昼下がり、菖蒲市街を歩きました。
かつて水運・陸運両用の中継地として栄えた、300年以上の歴史を持つ古い街。戦前の建築と思われる古い建物も数多く残ります。
散策の前に、まずは菖蒲市街の成り立ちを学びます。
星川左岸の埋没台地上に発達した市街地。いつ発生したのかは定かではありませんが、町内の寺院から「享保元年丙申年 武州菖蒲町」と書かれた文献が見つかっており、遅くとも享保元年(1716年)の頃には存在していたと考えられています。江戸時代の「町」は、宿場町や門前町と言うように、何らか人や物が行き交う地域の中心地でなければ、名乗ることができませんでした。
菖蒲は中山道と日光街道の中間に位置し、その地の利を活かして、江戸時代には9か所へ人馬継立(人や荷物を隣の宿駅まで人馬で運ぶこと)を行っていたそうです。菖蒲を通る街道の一つに、岩槻と忍を結ぶものが挙げられ、伊能忠敬が作成した「伊能図」にも記載されています。
(参考)国土地理院ホームページ『武蔵 忍 川越 | 古地図コレクション(古地図資料閲覧サービス)』
享保元年(1716年)の時点では、菖蒲町には本町(現在の上町・仲町)があったそうで、現在の県道313号線沿いに呼応します。古い航空写真を見ると、たしかに南北を貫く街道沿いに市街地が見えます。
菖蒲市街の航空写真(1948年)
菖蒲市街の航空写真(2021年)
その後、1728年に見沼代用水が完成、1731年に見沼通船が運行を開始すると、菖蒲に河岸(船から人や荷物をあげおろしするところ)が設置され、この頃に「本町」に加えて「横町(下町)」が発生し、菖蒲は水運・陸運両用の中継地として発展する素地ができたようです。
※なお、柴山の伏越(河川が他の河川をアンダーパスする機構)が改築されたことで、柴山以北の船の通行が困難となったため、残念ながら1759年に菖蒲河岸は休止してしまいますが、人馬継立や市は存続し、菖蒲は近隣諸村の流通経済の拠点として賑わったようです。
見沼通船が柴山以北へ運行できるようになったのは、明治期に入った1869年で、菖蒲河岸は1874年に再開しました。江戸時代より陸路の要衝であった菖蒲には船が盛んに出入りし、菖蒲の市には、米、塩、さつまいもから、肥料、石油、木炭まで、様々な品物が行き交い、活気に満ちていたと言います。
江戸時代の「菖蒲町」は、戸ヶ崎村(おおよそ現在の菖蒲町菖蒲区域)の中にある市街地を指していましたが、1877年に戸ヶ崎村が菖蒲町へ名称を変更し、現在で言う地方公共団体としての菖蒲町が誕生しました。
1889年に現在の地方制度の基となる「市制・町村制」が施行されると、同年に菖蒲町と新堀村が合併し、改めて菖蒲町が誕生。なお、1889年の時点で「町」だったのは、南埼玉郡内では久喜町・菖蒲町・岩槻町・粕壁町・大沢町・越ヶ谷町のみで、菖蒲町は、現在の市と肩を並べて古い時期から町でした。
1902年の時点では、菖蒲市街には170の商店や事業所が軒を連ね、裁判所も立地し、菖蒲銀行という名の銀行も存在したそうです。菖蒲は地域における一大商業都市となり、繁栄を極めました。
※戦前・戦後の菖蒲市街の写真は、菖蒲夏祭り実行委員会ホームページ『上・仲・下町の昔の風景|菖蒲夏祭り』で確認できます。
明治35年(1902年)当時の菖蒲町の商店街
引用:菖蒲町教育委員会(2006)『菖蒲町の歴史と文化財 通史編』ぎょうせい
しかし時代が経つにつれ、輸送手段は水運から鉄道へとシフトしていきました。見沼通船は1931年に廃止となり、鉄道が通らなかった菖蒲は衰退していきました。
戦後は道路交通量の増加に合わせ、市街地を避けるように新たな道路が建設されました。大通りから1本入った、中央線や歩道の無い道こそが、江戸時代から続く菖蒲市街です。往時の活気は失われてしまいましたが、水陸両用の中継地として栄えた歴史を今に伝えます。ノスタルジアを感じに、散策してみては如何でしょうか。
菖蒲市街と街道の成り立ち
2023/12/3 ※別日撮影の写真もあります
① はじまりは菖蒲橋(あやめばし)から。江戸時代から存在する、星川(見沼代用水)にかかる橋です。古くから菖蒲の西の入口で、中山道方面から来た旅人は、この橋を渡って菖蒲の町に入りました。戦前、花見の時期には土手に沿って屋台が並び、大いに賑わったそうです。
② 橋を渡ると下町(横町)です。早速古そうな建物がありました。「河岸のウチ」と呼ばれるそうで、いかにも水運で栄えた町を感じさせます。仲町方面へは微妙にカーブしており、こちらもエモみのある風景です。
③ 埼玉りそな銀行菖蒲支店のあたりで菖蒲橋方面を振り返ります。菖蒲の町は、かつては上野のアメ横並みに人がごった返していたそうです。埼玉りそな銀行菖蒲支店は、1899年開業の菖蒲銀行の血筋をひきます。
④ さらに仲町方面へ進むと、これまたレトロな建物がありました、「荒井時計舗」さん。右から左へ読ませていますが、戦前に建てられたのでしょうか。太平洋戦争中は、菖蒲にも何発か焼夷弾が落とされたそうですが、幸い町全体の火事には至らなかったそうです。
⑤ 荒井時計舗さんから少し進むと、右手に田村商店(米屋)さんが見えます。ここを右折した道が、かつて菖蒲と岩槻を結んだ街道で、菖蒲の南の入り口になります。岩槻方面へ少し進んで振り返ると、小京都を思わせるような景色。菖蒲にもこういう場所があるんですね。
⑥ 仲横(ちゅうおう)交差点に着きました。仲町と横町(下町)が交わる所で「仲横」なのでしょうか。大正時代頃までは丁字路だったようですが、岩槻方面への道が開かれて以降は、東西南北の交流点となりました。なお、菖蒲町道路元標(旧道路法下で各市町村に置かれた、道路の起終点や経過地を表す標識)も仲横交差点付近に設置されたそうなのですが、見つかりませんでした。
※仲横付近は、夏祭りになると非常に賑わいます。
⑦ 仲町を騎西方面へ進みます。まっすぐした道で、かつては騎西を通って忍(行田)まで繋がっていました。一時期は国道122号線でもありましたが、1966年、菖蒲宮本に新たな道ができてからはその座を譲り、現在は県道313号線に指定されています。
⑧ またレトロな建物がありました。皆さんも菖蒲のレトロスポットを見つけてみてください。
⑨ 県道12号線との交点、菖蒲仲町交差点が近づいてきました。イナリ写真館さん、ツタの絡まり方がすごいです。昭和初期、菖蒲橋のバイパスとして仲橋が建設され、そのまま久喜方面へ道路が突き抜け、現在の県道12号線になりました。
➉ 菖蒲仲町交差点を越えると上町です。上町の北端まで進み、仲町方面を振り返ります。騎西・忍方面からの旅人は星川に沿い、ここから菖蒲の町に入りました。
⑪ 仲橋まで戻って来ました。「菖蒲仲橋」バス停で聞き覚えのある方も多いのではないでしょうか。橋の真ん中に街灯があり、おしゃれな雰囲気です。
⑫ 仲橋から菖蒲橋方面へ歩くと左岸にあやめ会館(公民館)があります。1988年までは菖蒲町役場が建っており、1965年頃までは菖蒲座という映画館もあったそうです。菖蒲の良いところって、街の風景に水面があるんですよね。
⑬ あやめ会館の裏には荒れた建物がありますが、島田医院という産婦人科だったそうで、ここで生まれた町民も多いそうです。かつての菖蒲の栄華を知る、人も建物も少なくなる一方なのでしょうか。
参考文献
菖蒲町教育委員会(2006)『菖蒲町の歴史と文化財 通史編』ぎょうせい
埼玉県菖蒲町(2004)『泣いた。笑った。生きた。』ぎょうせい