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​菖蒲町の紹介

 久喜市(くきし)は埼玉県の北東部に位置する、人口約15万人の市で、久喜市菖蒲町(くきししょうぶちょう)は、その久喜市を構成する一地域です。元々は南埼玉郡菖蒲町という町でしたが、2010年に久喜市(旧)・北葛飾郡鷲宮町・北葛飾郡栗橋町と合併し、久喜市となりました。しかし旧菖蒲町域に関しては、合併後も住所に「菖蒲町」の名が残り、「埼玉県久喜市菖蒲町○○」という住所形態となりました。現在でも旧菖蒲町域を久喜市と区別し、「久喜市菖蒲町」や「菖蒲地区」といった呼び方をします。

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 久喜市菖蒲町の面積は27.37平方キロ、人口は18,726人(2022年4月1日現在)です。利根川と荒川に挟まれた沖積低地上にあり、概ね低湿で平坦な土地が広がります。「菖蒲」という地名も、沼が広がりあたり一面に菖蒲が群生していたことに由来すると、一説として言われています。町の面積の約6割が田か畑で、東京の近郊農業、特に梨の生産が盛んです。

 町内には星川、野通川(やどおりがわ)、元荒川といった一級河川や、十数本の用水が張り巡らされており、その中でも特に見沼代用水が、江戸時代に新田開発のため掘られた用水として名高いでしょう。そして菖蒲はその地の利を活かし、古くは見沼通船という水運の中継地として栄えました。2と7の日に市が立ち、農産物や農機具が売買されていたそうです。そのため菖蒲の旧市街も、見沼代用水を中心にして形成されており、現在でも商家や船問屋が所々残り、水運で繁栄した当時の様子をうかがうことができます。

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 町内に鉄道は通っておらず、首都圏で生活するには不便な状況にあると言えます。公共交通機関としては、路線バス・市営バス・市デマンドタクシーがあり、路線バスは、久喜駅(JR宇都宮線・東武伊勢崎線)・白岡駅(JR宇都宮線)・蓮田駅(JR宇都宮線)・桶川駅(JR高崎線)と菖蒲を結んでいます。

 一方で町内には、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)や国道122号バイパスといった幹線道路が通っており、道路による交通アクセスは良好です。そしてこれらの幹線道路沿いには、店舗面積約9万平方メートルで、埼玉県内で2番目に大きいショッピングセンター「モラージュ菖蒲」や、ケーズデンキや蔦屋書店といった有名チェーン店が立ち並んでおり、多くの買い物客が訪れます。また久喜菖蒲工業団地、菖蒲北部工業団地、菖蒲南部産業団地、の3つの工業団地が立地しており、水運に代わって町の新たな物流拠点となっています。

 また町外の人が菖蒲を訪れる目的の一つに、「ブルーフェスティバル」という催し物があげられます。これは毎年6~7月に開催されるイベントで、50品種1万6000株の花菖蒲や、7000株のラベンダーを見ることができます。屋台も繰り広げられ、地元吹奏楽団による演奏や、菖蒲に伝わる伝統芸能「水ささら」を楽しむこともできます。開催期間を通して、毎年約20万人の観光客が訪れています。

 菖蒲は、その花の地名に飾られながら、悠久の歴史を歩んできた、農業と工業と商業が調和した町です。東京50km圏内にありますが、鉄道幹線から外れているためか、その町の存在を知る人は多くないでしょう。一方で、鉄道が通っていないがために大規模な開発を免れ、現在でも美しい田面や、水運で栄えた町の面影を残しています。都会の雑踏を少し離れ、日本でも珍しい花の名前の町へ、その花と歴史の香りを聞きに、訪ねてみてはいかがでしょうか。

 次章では、そんな花の地名が織りなす菖蒲の歴史をご紹介します。

​菖蒲町の歴史

千年以上受け継がれた地名。

日本でも珍しい花の市町村名(当時)

 菖蒲(しょうぶ)。今から1300年ほど前、行基上人は、下野国巡錫の道すがら当地を通った際、沼が広がりあたり一面に菖蒲が群生しているのを見て、当地をそう名付けたそうです。それから、平安時代は荘園の名前(菖蒲庄)、室町時代は城の名前(菖蒲城)、江戸時代は河岸の名前(菖蒲河岸)、明治以降は町の名前(菖蒲町)と、行基上人から拝受したその地名は、親から子、子から孫へと、千年以上に渡って受け継がれてきました。※諸説あります

 菖蒲という地名は、当地が「菖蒲が花咲く美しい土地」であるのと同時に「菖蒲が生えるほど低湿な沼地」であることを示唆します。関東造盆地運動と利根川や荒川の堆積作用によってできた沖積低地。数km毎に川が流れ、大雨が降れば氾濫し、流路も安定しませんでした。後背湿地には沼が広がり、人々は、自然堤防や沈降台地上に住居を構え畑作をし、沼と微高地の間のわずかな土地で稲作を行っていました。それでも先人たちは、厳しい環境の中でも、この地理的条件を活かしていこうと、昨日より今日、今日より明日、よりよい生活を送ろうと、この地を切り拓いていきます。それは治水と水利の歴史でした。

治水技術の集大成。
水陸両用の中継地。

 室町時代になると、享徳の乱の中で、川や沼に囲まれた当地が自然の要塞として注目されます。そして古河公方・足利成氏の家臣金田則綱が、上杉氏と対峙するための前衛基地として、1456年に菖蒲城を築城しました。室町後期になると、本格的に治水事業や新田開発が始まっていきます。

​ 備前堤の築造による荒川の流路変更、小林前沼、小林後沼、栢間沼、河原井沼の干拓などが挙げられますが、中でも見沼代用水の建設が、全国的にも名高いでしょう。見沼代用水は、見沼溜井(「みぬまためい」現在のさいたま市東部に存在した沼)に代わる用水、という意味で、見沼溜井周辺の用悪水の統制と、関係諸村の新田開発を目的として建設されました。利根川に水源を求め、現行田市に取水口を設置、そこから星川まで水路を掘削し、現行田市から菖蒲町までは星川の流路を利用、そして菖蒲町で星川と見沼代用水を分流させ、さらに上尾市で東縁用水路と西縁用水路の2つに分け、両用水はそれぞれ南下、見沼溜井跡に到達します。1728年に完成し、受益村数は346村、総石高は約14万石に達したといいます。また菖蒲においても新田開発が進み、大きな村1村に匹敵する、約1,300石の石高が開発されました。見沼代用水と星川を分流させる八間堰・十六間堰、逆サイフォンの原理で他の河川をアンダーパスする伏越など、当時の治水技術が垣間見えます。

​ 菖蒲の中心市街がいつ形成されたのかは不明ですが、町内の寺院から「享保元年丙申年 武州菖蒲町」と書かれた、つまり菖蒲が「町」として記載された史料が発見されており、遅くとも享保元年(1716年)の頃には、人やものが行き交う地域の中心として栄えていたようです。江戸時代の菖蒲は、中山道と日光街道の丁度中間に位置し、両街道の取次ぎ地点として人馬の継立を行っていました。

 1731年には、見沼代用水を利用して、江戸~現行田市間で見沼通船という川船輸送が開始され、既に各宿との地の利が良かった菖蒲には河岸が設置されました。菖蒲河岸は、周辺農村から江戸へ年貢米を届け、江戸から周辺農村へ砂糖や魚類その他雑貨を届ける、水陸両用の中継地としての役割を果たしました。なお柴山伏越(「しばやまふせこし」現白岡市に所在)の完成により、柴山以北の船の通行が困難となったため、残念ながら1759年に菖蒲河岸は休止してしまいますが、人馬の継立や市は存続し、菖蒲は近隣諸村の流通経済の拠点として賑わったようです。

日本の発展に貢献した菖蒲出身2人の偉人。

 秩父連山や越後山脈から流れてくる水は、肥沃な土壌と輸送手段をもたらしました。これらの治水事業や新田開発により、菖蒲は江戸時代以降、食糧供給が安定し、文化面でも成熟していきます。特に、日本の発展に貢献した2人の偉人として、菊池菊城と本多静六が挙げられます。

​ 菊池菊城(「きくちきくじょう」1785~1864)は江戸時代後期の儒学者・教育者で、現在の菖蒲町台地区生まれです。江戸で勉学ののち諸国を遊歴し、好んで寒村僻地で農民たちに学問を教授しました。中でも現深谷市に設立した本材精舎では、渋沢栄一も教え子の一人として菊城から学問を学んでいました。菊城は日本近代の土台を支えた人物であると言えます。

​ 本多静六(「ほんだせいろく」1866~1952)は明治~昭和初期の林学博士で、現在の菖蒲町河原井地区生まれです。苦学ののち現在の東京大学農学部に入学。卒業後はドイツに留学し、経済学博士号を取得。帰国後は帝国大学農科大学で助教授を務めるなどし、日本初となる林学博士号を取得しました。その後は日本各地で公園の設計に携わり、静六が設計した公園の中には、北海道の大沼公園、東京の日比谷公園、さいたま市の大宮公園、秩父市の羊山公園などがあります。投資家としても財を成しましたが、晩年には財産のほぼ全てを教育機関や公共団体に寄付しました。現在でも本多静六博士奨学金が埼玉県により運営されています。

水の都としての繁栄。
久喜よりも人口が多かった。

 明治時代に入った1869年、柴山以北の諸村より、通船区域拡張の願書が提出されます。これを機に、見沼通船は再び柴山以北まで運行されるようになり、菖蒲河岸は1874年に再開しました。菖蒲は当時さつまいもの集散地で、また江戸時代より陸路交通の要衝でした。そのため、菖蒲河岸には船が盛んに出入りし、菖蒲の市には、米、塩、さつまいもから、肥料、石油、木炭まで、様々な品物が行き交い、活気に満ちていたといいます。

 

 1877年には、菖蒲河岸のあった戸賀崎村が名称変更し、地方公共団体としての菖蒲町が誕生しました。その後も菖蒲は水の都として発展を続け、1902年の時点で、菖蒲市街には、170の商店や事業所が軒を連ね、また裁判所も立地し、菖蒲銀行という名の銀行も存在していました。菖蒲は地域における一大商業都市となり、商業、流通、文化、娯楽の中心地として、繁栄を極めました。

​ なお第1回国勢調査(1920年)によると、現在の菖蒲町に呼応する地域の人口は14,029人で、久喜市久喜地区(13,541人)や、桶川市(11,048人)、白岡市(10,298人)よりも多くの人口を抱えていました。当時の菖蒲がいかに栄えていたのかがうかがえます。

地勢を逆転させた鉄道。
交通不便地域としての衰退。

 しかしその繁栄は長く続きませんでした。見沼通船は、1883年に開通した現在のJR高崎線や、1885年に開通した現在のJR宇都宮線(東北本線)と、輸送において競合状態となります。大量輸送が可能な鉄道は、水運よりも便利な輸送手段でした。そのため、菖蒲近辺における物資の流れも、徐々に見沼通船からこれらの鉄道へとシフトしていきます。こうして、一時は隆盛を極めた見沼通船ですが、次第に輸送量が減少し、ついに1931年、200年の歴史に幕を閉じました。

 菖蒲においても、いくつか鉄道建設の話が上がったことがあるようです。中でも現実味を帯びていたのは武州鉄道でした。武州鉄道は、川口から岩槻、蓮田、菖蒲、加須を通り、行田まで結ぶ予定でした。まず1924年に蓮田~岩槻間が開通します。運行しながら資金を集めて延伸していく予定で、1936年には神根(現川口市北部)まで延伸しました。菖蒲町内にも駅舎を建てるための用地が確保され、いよいよ蓮田~菖蒲間の建設が始まろうとしていました。しかし武州鉄道は、そもそも東京方面とつながっておらず利用者が少なかったということや、第一次世界大戦後の不況などから、慢性的な赤字経営と資金不足が続いていました。その結果、菖蒲まで延伸することなく、1938年に倒産、全線廃線となってしまいます。

 菖蒲に向けて他の鉄道路線が建設されることもなく、見沼通船も廃止された菖蒲は、人や物資の中継地でなくなり、流通経済の拠点としての機能を失い、衰退していきました。

​圏央道の開通と新たな発展へ。

 戦後、鉄道を有する菖蒲近辺の自治体は、駅前に大規模な住宅地を開発し、人口が増え活気づいていきましたが、その波から外れた菖蒲は、かつての栄光は忘れ去られ、静かな時を過ごしていました。

 しかし2008年に転機が訪れます。それまで菖蒲市街を通っていた国道122号が、新たに町の東部にバイパス(騎西菖蒲バイパス)として開通したのです。併せてバイパス沿いには、県内で2番目に大きいショッピングセンターが開店しました。また2011年には圏央道(久喜白岡JCT~白岡菖蒲IC間)が開通し、菖蒲町内にインターチェンジが設置され、国道122号バイパスに接続し、町内に2つの工業団地が造成されました。東京50km圏内に位置し、安価で平坦な土地が広がる菖蒲は、ショッピングセンターや工業団地の立地に適していたのかもしれません。2015年には圏央道(白岡菖蒲IC~桶川北本IC間)が開通し、菖蒲PAも設置され、菖蒲から関越道、中央道、東名高速等へ直接行けるようになったことで、さらに利便性が向上しました。

​ かつて先人たちが闘ってきた水。彼らは川の流れを変え、沼を拓き、灌漑を整備し、肥沃で安定した土地を後世に遺しました。その土地の上では新たな産業が生まれ、菖蒲は再び人や物の交流拠点となっています。一方で、菖蒲PAは、地域の花である菖蒲を基調とした作りとなっていたり、ショッピングセンターは、菖蒲町という地理的・歴史的背景を重視し、ラベンダー・あやめ等の紫色を建物内部にデザインしたり、塔屋を取り止めた落ち着いた作りとなっていたり、またこれらの施設では時折菖蒲産の作物が直売され、生産者と消費者の交流が生まれていたりと、菖蒲における新しきものと古きものとの間で調和が図られています。

 菖蒲という地名は、往時は荘園の名前、城の名前、河岸の名前として、現在は町の名前やIC・PAの名前、ショッピングセンターの名前として、人々の口に唱えられてきました。そこにはその地名が織りなす歴史があり、そして人々の営みがあります。先人たちから受け継いだ、花の名前の町の未来をどう描くかは、今を生きる人々に託されています。

​ 埼玉県久喜市菖蒲町で活動する市民サークル「菖蒲ゆめまち」です。

 菖蒲の課題解決や魅力向上につながるプロジェクト活動を行い、市民の思い描く菖蒲の未来(夢)を現実にしていきます。

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