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​武州鉄道​線

菖蒲駅用地も確保され、​通るはずだった鉄道路線。

​現代人に引き継がれなかった、先人達の思い。

​1.概要

 菖蒲と鉄道の話をするならば、武州鉄道は外せません。

 武州鉄道は、大正~昭和初期に埼玉東部を走っていた鉄道路線です(廃止直前の運行区間:神根(川口市)~蓮田)。蓮田からさらに菖蒲方面への延伸を予定していましたが、資金不足により叶わず、1938年に廃止となってしまいました。

 

 なお、現在の菖蒲東小学校付近が菖蒲駅の建設予定地で、武州鉄道により一部用地買収が行われていました。

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図1:菖蒲町内鉄道建設予定地(青色部分が武州鉄道株式会社が所有していた土地。黒枠は現在の菖蒲東小学校敷地)

​(出典)久喜市ホームページ「第82回 幻の武州(ぶしゅう)鉄道:久喜市ホームページ

​2.歴史

2-1.内田氏と中央軽便電気鉄道

 武州鉄道の歴史は、1910年に設立された中央軽便電気鉄道から始まります。

 

 発起人代表・内田三左衛門氏は、現在の東京都板橋区の人で、東上鉄道(現東武東上線)の発起人の一人でもあります。諸事情により、東上鉄道の敷設権は東武鉄道の根津嘉一郎氏に売却されましたが、鉄道敷設の夢を諦めきれなかった内田氏は、東京から北へ向かう鉄道の着想を得たようです。

2-2.菖蒲延伸の夢

 中央鉄道は、当初岩槻から日光方面を目指していましたが、岩槻周辺の有力者として、綾瀬村(現蓮田市)の県会議員・飯野喜四郎氏を巻き込むため、岩槻から蓮田方面へ舵を切ったようです。

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図2:武州鉄道建設の軌跡

​(出典)菖蒲ゆめまち代表が作成

 1912年7月12日には、中央鉄道社長・羽田彦四郎氏や取締役に就任した飯野氏らが菖蒲町を訪れ、下町の「松崎屋」で周辺の有力者を招き、支援を依頼しています。

「 明治四十五年七月十二日、高崎線朝一番の列車が喜四郎の出迎える蓮田停車場に着き、浦和から乗り込んだ駒崎と共に羽田社長が降りてきた。今日は風が強く曇り、時々薄日が射してくる。

 三人は喜四郎が手配し停車場前に待たせていた人力車を連ねて菖蒲町に向かった。蓮田から菖蒲までの道は、行田近郊から流れ出た星川の畔を辿り、梨畑の中を続いている。道々、喜四郎は俥の上から細竹で支えた梨の木々が並ぶ畑と、その中を汽車が行く白日夢のような想像の景色を眺めていた。すぐ前を行く俥の背の倒した幌の上から駒崎の帽子の先だけが見える。時々、駒崎は遅れ気味の喜四郎の車を心配して後を振り返り笑っている。駒崎の俥は少し車軸が曲がっているのか、あまりに悪い道のせいか、車輪が左右に揺れて彼のパナマ帽も揺れている。自分の俥も遠くから見れば同じように揺れているのかもしれない。

 二人とも、この時はまだ四十歳代も半ばを越えたばかりであった。雲が途切れ、また少し日が射してきて、羽田の俥は随分先を土煙を上げながら走っている。

 菖蒲の街は見沼用水の畔から北に久喜に向かう下町通りと、下町の外れから西に騎西に向かう中町上町通りのL字の街路に沿って商店が並んでいる。平澤三郎の菖蒲郵便局は下町中町が交差する角にあり、中町の何軒か並びに菖蒲銀行があった。

 三人は下町の久喜側の外れにある旅館兼料理屋の松崎屋に近隣の有力者達を招待して、昼食を共にしながら鉄道敷設の計画を説明して支援を頼んだ。羽田は自ら招待客に酌をして廻り、その意気込みを見せている。」

風間進(2001)『武州鉄道』pp.38-39

 1913年9月11日に、鉄道院(現国土交通省)から中央鉄道に対し、岩槻(~蓮田~菖蒲~加須)~忍間の鉄道免許が下付されました。

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図3:岩槻忍間予測平面図

​(出典)国立公文書館所蔵『延長線敷設免許ノ件』に菖蒲ゆめまち代表が加筆

 当時、菖蒲周辺では埼玉鉄道(久喜~菖蒲~騎西~鴻巣)も鉄道免許を得ていましたが、1914年に失効しました。この結果、菖蒲町の平澤三郎氏や株式会社菖蒲銀行など、埼玉鉄道の株主の多くが中央鉄道に出資することになり、菖蒲への鉄道敷設の夢は中央鉄道に託されることになります。なお、平澤氏は中央鉄道の取締役に就任しています。

 最終的に鉄道敷設の夢は破れてしまいますが、蓮田以北で用地買収が行われたのは菖蒲町のみでした。出資者を安心させるためかもしれませんが、武州鉄道と当時の町民の、菖蒲延伸への熱意をうかがい知ることができます。

 

2-3.終始苦境の鉄道建設

 中央鉄道は最初に岩槻~大門(現東北道浦和IC付近)間を1913年に着工しますが、無計画な出費や資金調達の難航などにより工事は遅延。さらに川口付近の用地買収が難航し、始発駅をどこに設置するかでも迷走しています(図2を参照)。なお、心機一転を図るためか、1919年に「武州鉄道」に改名しました。

 

 初めての着工から11年かかり、先に岩槻~蓮田間が1924年10月19日に開業しました。600名以上の来賓が招かれ、開業式典が盛大に行われたそうです。なお、当時は現東武野田線が未開業だったため、武州鉄道は岩槻に通った初めての鉄道でもあります。

 

 その後、1928年12月25日に岩槻~武州大門間、1936年12月31日に武州大門~神根(現川口JCT付近)間が開業し、東京方面へ南進を図ります。しかし、開業区間で十分な利益を生むことはできず、資金不足が解消することはありませんでした。結果、菖蒲への延伸も果たせぬまま、武州鉄道は1938年9月2日に全線廃止となってしまいました。

 

2-4.先人達の歩んだ道

 武州鉄道の線路跡の多くは、公共団体や沿線住民により買い取られました。特に、武州大門付近~神根間は、現在の東北道及び国道122号の用地として活用されています。車が走っている道には、かつて列車が走っていたのです。また、武州鉄道蓮田駅跡は、現在駐輪場になっています。

 

 菖蒲町内に確保されていた鉄道用地の一部は、現在菖蒲東小学校の敷地になっています。図1の通り、鉄道用地は南東から北西を向いていますが、これは図3の予測平面図とも一致します。たしかにここに、鉄道が通るはずだったのです。

 

 武州鉄道について、現在はほとんど跡形が無くなり、知っている人も少ないでしょう。なぜ岩槻から南進したのか、なぜもっと手際よくできなかったのか…後世の人が批判をするのは簡単ですが、東京、岩槻、蓮田、菖蒲、多くの人の夢を乗せて走り続けたのは事実で、そこには数えきれない先人達の人間模様がありました。先人達の歩んだ道を汲み上げ、未来の交通改善に繋げることが、現代を生きる我々の使命なのかもしれません。

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図4:武州鉄道建設予定線

​(出典)国立公文書館所蔵『延長線敷設免許ノ件』を参考に菖蒲ゆめまち代表が作成

​2.武州鉄道本線が菖蒲を通っていた世界
※フィクションです

​ 武州鉄道の夢は頓挫してしまった訳ですが、もし建設・経営が順調に進んでいたらどうなっていたか。また、菖蒲駅の状況はいかほどか、妄想してみたいと思います。

~武州鉄道の沿革

 開業時に川口・鳩ヶ谷周辺の有力者を多く巻き込んだ中央鉄道。暫定的に川口市街東端に用地を確保し起点とし、北伸しながら工事を進めることとした。まず、1912年に武州大門まで着工し、1917年に開業。武州川口、鳩ヶ谷、神根、武州大門の各駅を設置した。

 また、武州川口~武州大門間には院線(現JR線)に繋がる線路が無いため、当時用地買収が容易であった蕨で接続すべく、鳩ヶ谷から蕨に向けても線路工事を進めた。1919年に鳩ヶ谷~蕨間が開業し、上青木、蕨の各駅を設置した。この時点で、岩槻から蓮田・行田方面への延伸を計画していたため、会社名を「武州鉄道」に変更。

 鳩ヶ谷と大門は、江戸時代の日光御成街道の宿場町であり、比較的人口が多く、東京との往来需要も盛んであった。武州鉄道は順調に営業成績を伸ばしていった。

 1922年には武州大門~岩槻間が開業。武州野田、笹久保、浮谷、岩槻の各駅を設置した。この時点でも正式な起点駅をどこにするか決まっていなかったが、1923年9月1日に関東大震災が発生し、状況が一変する。

​ 赤羽駅周辺の復興にあたり、武州鉄道の線路用地が確保されることになった。これにより、武州川口から線路を南進させ、荒川を越え、赤羽駅を正式な起点とすることになった。荒川の架橋及び赤羽駅周辺の高架工事には、多額の費用が見積もられたが、東京府内のターミナル駅と繋げられるのは千載一遇のチャンスであり、社運を賭けた大工事が行われた。

​ 1927年に赤羽~武州川口間が開業。ちょうど翌1928年には、省線電車線(現JR京浜東北線)が田端駅から赤羽駅まで延伸開業し(史実)、赤羽から池袋・新宿方面へ行けるだけでなく、高頻度で運行される電車に乗って東京駅方面にも行けるようになった。鳩ヶ谷、岩槻方面からも多くの客が武州鉄道に乗り、赤羽で乗り換えて都心へ向かうようになり、赤羽延伸事業は成功した。

 1924年に岩槻~蓮田間を開業させていたが、赤羽延伸による増収で波に乗った武州鉄道は、ついに蓮田から菖蒲、行田方面への延伸事業に着手する。

 1933年、蓮田~菖蒲間が開業(駅設置:平野、武州大山、菖蒲)。1934年、菖蒲~騎西間が開業(駅設置:騎西)、1936年、騎西~行田間が開業(駅設置:埼玉、行田)。予定していた全区間での開業を果たした。

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開業当初の菖蒲駅(イメージ)

 戦後は、赤羽付近から順次複線化と電化を進めた。高度経済成長に合わせ、沿線の宅地開発が進行し、東京への通勤客が増大した。1970年頃には、岩槻から分岐して東武鉄道杉戸駅(現東武動物公園駅)に至る新線構想が浮上。岩槻から北東へ向かう線路は、設立当初、中央鉄道が描いていた計画とも一致する。1983年に動物公園線(北岩槻~東武動物公園間)が開業した。

 通勤ラッシュの大混雑は、武州鉄道も例外ではなかった。また、赤羽から都心へ向かうJR線の混雑が酷く、武州鉄道が赤羽から地下を通り、都心へ直通することが期待された。都市交通審議会で検討されていた地下鉄7号線計画と結びつき、赤羽から王子、駒込、市ケ谷、永田町、目黒を通り東急目黒線に直通することになった。

​ 1991年、地下鉄南北線(赤羽~駒込間)が開業。赤羽駅は地下化され、武州鉄道線と南北線の相互直通運転が開始された。南北線は、1996年に四ツ谷まで、1997年に溜池山王まで、2000年に目黒まで延伸開業し、目黒から東急目黒線への直通運転を開始している(史実)。

 また、2002年のFIFAワールドカップ開催に合わせ、武州鉄道のさいたま市と岩槻市の境界付近に、大型のサッカースタジアムである埼玉スタジアム2002が建設されることになった。これに伴い、2001年、武州野田~笹久保間に埼玉スタジアム駅が開業。また、埼玉スタジアム駅を境に緩急分離が行われ、各駅停車の多くが埼玉スタジアムを発着とする、現在の運行形態が成立した。

 武州鉄道は、鳩ヶ谷、岩槻、菖蒲、騎西、行田など古くから続く街々を繋ぎ、東京北部のベッドタウン沿線として多くの通勤客を運んでいる。また、埼玉スタジアムの観客や、東武動物公園、さきたま古墳の観光客による利用も旺盛である。総延長100kmに満たない鉄道路線であるが、武州と冠する地域密着の交通機関として、今日も多くの人を運んでいる。

武州川口駅付近を走行中の武州電車(イメージ)

~武州鉄道線の概要~​

下記、埋め込みの地理院地図から線路や駅の位置を確認できます。ぜひ操作してみてください。

停車駅のご案内.jpg

・本線​​

起点   :赤羽駅

​終点   :行田駅

​駅数   :25駅

路線距離 :54.8km

軌間   :1,067mm

線路数  :複線

電化区間 :全線

電化方式 :直流1,500V

​      いずれも架空電車線方式

​閉塞方式 :自動閉塞式

保安装置 :武州型ATS

​最高速度 :110km/h

・蕨線

起点   :鳩ケ谷駅

​終点   :蕨駅

​駅数   :4駅

路線距離 :4.9km

線路数  :単線

​最高速度 :100km/h

その他は本線に同じ

・動物公園線

起点   :北岩槻駅

​終点   :東武動物公園駅

​駅数   :4駅

路線距離 :8.9km

線路数  :複線(北岩槻駅~慈恩寺駅間)

​      単線(慈恩寺駅~東武動物公園駅間)

その他は本線に同じ

 武州鉄道保有の8両編成の車両が本線及び動物公園線、4両編成の車両が蕨線に投入されている。また、東京メトロ南北線に直通する本線及び動物公園線には、東京メトロ、東急、相鉄車両も乗り入れている。

 本線では、おおよそ埼玉スタジアムを境に緩急分離が行われており、赤羽~埼玉スタジアム間では、普通(埼玉スタジアム発着)が日中10分毎、準急(東武動物公園発着)と急行(行田発着)が交互に日中10分毎に運行されている。すなわち、動物公園線と北岩槻~行田間は日中20分毎の運行頻度である。朝ラッシュ時は、普通(埼玉スタジアム発着)と通勤準急・通勤急行がそれぞれ5分20秒毎に運行されており、すなわち2分40秒毎に列車がやってくる。この他、朝夕には有料の「武州ライナー」が運行され、着席サービスを確保している。本線及び動物公園線のほとんどの列車は、東京メトロ南北線さらに東急目黒線・相鉄線に直通運転を行っている。蕨線では、鳩ケ谷~蕨間でおおよそ10~15分間隔でピストン輸送が行われている。

 以前は、蕨の東北貨物線から蕨線さらに本線へ貨物列車が運行されていたが、現在武州鉄道では貨物の取扱いを行っておらず、必要な信号設備なども撤去されている。また、以前は行田から秩父鉄道線へ直通する列車も運行されていたが、現在は運行されていない。JR線とは、唯一蓮田で線路が繋がっており、稀にJR線経由で甲種輸送が行われる際は、蓮田で連絡される。

~菖蒲駅の概要~​

武州菖蒲駅.jpg

菖蒲駅西口(イメージ)

​​キロ程 :37.5km(赤羽起点)

​駅構造 :地上駅(橋上駅)

ホーム :2面3線

​乗車人員:約7,000人/日

開業年 :1933年(昭和8年)

​ 菖蒲町中心市街地の最寄り駅である。西口は古くからの市街地に面し、桶川駅東口行の路線バスが発着する。東口は橋上駅舎化の際に新たに開設され、駅前には菖蒲ニュータウンが広がる。久喜駅西口行の路線バスの他、モラージュ菖蒲とを結ぶシャトルバスが発着する。

​ 菖蒲町民が他市への通勤・通学で利用する他、ショッピングモールの買い物客や、工業団地関係者も多く利用する。

 単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線のホームを有する地上駅。単式ホームが西口寄り、島式ホームが東口寄りにある。1番線が下り(行田方面)本線、3番線が上り(赤羽方面)本線、両線の間にある2番線が上下副本線である。2番線は、営業上は、武州ライナーの通過待ちを行う上り列車が利用し、下り列車の設定は無い。

番線 |方向|行先

1・2|下り|騎西・行田方面

2・3|上り​|蓮田・岩槻・赤羽・東京メトロ南北線方面

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